【新華社北京7月6日】中国の中央檔案館(古文書館)は6日、日本人戦犯・佐々真之助の中国侵略罪行に関する自供の抜粋を公開した。
佐々真之助が1954年8月から1956年5月までに書いた供述によると、彼は1893年に日本の福岡県で生まれ、1932年9月に中国に渡って中国への侵略戦争に参加し、関東軍第10師団歩兵第63聯隊第3大隊少佐大隊長を務めた。1945年7月、関東軍第3方面軍第39師中将師団長に就任した。1945年8月23日、ソ連軍に逮捕された。
重要な罪:
1932年10月、「私が佳木斯に駐留した期間」、「密偵容疑者として中国人民約30人を捕えた」、「このうち、抗日戦士15人と人民6人を拷問して殺害した。」「佳木斯から東北の約10キロの村」、「戦場の村民に損害を与え、私の命令に従い5人を殺害した。」
1940年8月、浙江省莫干山で、「私の部下だった大隊は、戦闘中に緑筒と呼ばれる毒ガスを使用し、重慶軍(即ち、国民党軍——編者注)戦士に莫大な損害を与えた。」10月、浙江省諸暨で「重慶軍戦士約600人を殺害し、この中に戦闘中の重傷者と戦士に殺害された捕虜を含め、推定約40人に上る。この罪悪は私が平素から捕虜を必ず殺害するように教育した結果だ。また、各大隊は戦闘中に緑筒と呼ばれる毒ガスを使用し、重慶軍戦士に大きな損害を与えた。」
1941年1月、浙江省杭州で、その指揮する第1大隊は「密偵容疑者約20人を捕らえ、約7人を拷問して殺害した」、第2大隊は「密偵容疑者約20人を捕らえ、約9人を拷問した後に殺害した」、第3大隊は「密偵容疑者約25人を拘束し、約8人を拷問して殺害した。」
1943年12月、「オンランダ領の東インド、アンボイナ島」で、「インドネシア人の女性十数人を強制的に利用し、日本兵が使用するための慰安所を設置した。これはインドネシアの女性に対する重大な侮辱行為だ。」
1944年6月、浙江省金華から衢州に至る作戦で、「人民約50人を殺害した」。
1944年12月から1945年5月にかけて、湖北省で「抗日軍及び抗日団の密偵容疑疑者(容疑者)、計約90人を捕らえ、調査のための拷問で、計約30人を殺害した」、「歩兵聯隊宣撫班においても、中国人民に対し欺瞞的な宣伝を行い、その行動中に人民を虐待し、このうち約6人を殺害した。」湖北省当陽で、「奮起した正義行動の多数の人民は、約20人を殴打して虐待し、殺害した。」「訓練で刺殺練習の標的などに使用し、捕虜5人を惨殺した。」「師団は湖北省駐留期間に、当陽で以前から設置していた日本人が経営する慰安所を日本軍隊を慰安するために使用し、師団は慰安所の経営を支持していた。慰安所にいた中国人女性十数人は、日本帝国主義の侵略戦争のために、苦難の生活に陥り、強制的に収容されて賎業に就かされた。私は宜昌、荆門にもこれと同様の慰安所があると思う。」
1945年1月、湖北省当陽で、「捕虜約5人を殺害した。」「師団は各部隊の軍官を当陽に召集し、毒ガス教育を行う際に、捕虜2人をガス室に押し込み、毒ガスの効果と使用状況をテストした。また、師団軍医部は捕虜4人をガス室に入れ、毒ガスの効果をテストして虐待し、最終的に全員を殺害した。」
1945年2月、湖北省沙市西北方馬山屯で「罪のない中国人民約15人を殺害した。」
1945年3月、湖北省襄樊作戦期間に、「重慶軍戦士約3,500人(このうち捕虜若干名の殺害を含む)を殺害した」、「中国人民約200人を殺害した」、「強姦した中国人女性は約50人」、「焼却した住宅は約200棟」。「師団の作戦と意図を隠蔽するため」、「人民3人の通行を阻止し、殺害したほか、他の村の路上などで人民を捕らえて虐待し、十数人を殺害した。」「南漳方面の作戦で、中国人民4人が負傷した重慶軍戦士2人を担架で運搬する途中で、負傷戦士2人を殺害し、逃走した運搬中の人民4人も射殺した。」「各歩兵部隊は攻撃、戦闘期間に、毒ガスを使用し、炮兵がガス弹を発射し、重慶軍に損害を与えた。」