重要な罪は次の通り。
1938年より1944年迄、「監獄内に於ける己決犯、未決犯収容者の死亡者数を揚げると、1938年度6000名位、1939年度8000名位、1940年度11000名位、1941年度14000名位、1942年度16000名位、1943年度18000名位、1944年度20000名位で、毎年監獄を出入りする収容者の推定総人員20万人に対し、30‰から100‰の高率に上がっている」。
1939年5月、「慰安の妓楼に供用する為、金3万圓を以て、建物1棟(約200百平方メートル)を建設して、貸与し。日本帝国主義軍隊を協力した」。
1941年7月17日より1945年8月15日迄、「奉天第一監獄は偽満洲国奉天医科大学の要求に応じ、監獄内に於いて病死し、屍体引取人のいない数百人の収容者の屍体を解剖学上の研究資料として提供する名義の下に、同大学に送付して、解剖させた」。
(翻訳・編集/呉寒氷)
(新華網日本語)
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