三宅秀也が1954年8月から1955年4月にかけて書き記した供述によると、彼の犯した重要な罪は次の通り。
1936年度、偽熱可省、偽錦州省で逮捕した下共産党員及び反満抗日思想を持つ中国愛国者が7066名に達し、其の内「厳重処分」(死刑)のが150名。
1938年11月に開かれた防疫本部会議に於いて、「偽新京のペスト防疫の完避を期するため、農安縣城をペスト病原地として、偽警察力を以て包囲し、外部との交通を完全に遮断することに決定した。」「関東軍が石井部隊に命令をして、ペスト防疫業務を直接担当させた主な目的は偽新京にペストを発生させる好機とし、他日の細菌戦に備え、石井部隊に命令をして、ペスト病菌に対する種々なる研究及び実験をさせた。石井部隊は偽農安縣城にて、偽警察の包囲の下における人民をペストの研究と実験用に供していた」。
1939年9月より1941年3月に至る間は、部下の各偽警察機関に抗日連軍第一路軍を「消滅」するのを指導し、抗日連軍約20名を射殺し、約1500名を引き寄せて差し押さえた。其の中に、楊靖宇、陳翰章などを含まれている。
1942年8月3日、偽慶安縣警察隊に命令し、該縣青風嶺で抗日連軍第三路軍軍長許享植を射殺させた。
1944年7月より1945年8月に至る間、私が偽奉天省警務庁長官に着任した時、部下に刑法違反者を逮捕させ、「1市6縣だけで中国人民13180名を逮捕し、其の中の4565名を偽検察庁に移送した。検察庁は其の中の14名を死刑と判決し、監獄の中に屠殺された」。
(翻訳・編集/呉寒氷)
(新華網日本語)
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