
重要な罪は次の通り。
1938年1月、国士舘の学生として、南京下関に行く途中、「何万数え切れないほどの死体が累々として横這っている」のを見た。南京下関に於いて、揚子江に飛び込んだ捕虜1名を「小銃で射撃し殺した」。
1938年4月、将校に教えて模範をしめすため、呉江で捕虜1名を「日本刀で首を斬った」。「ある中国女性を強姦した。その後一週間を経て、再び蘇州に行った時同女性を呉江に連行し一週間強姦をした」。
1938年11月、安慶で「中国女性を一人呼ばせ、機関内にて汚姦した」。更に翌日同様にある中国人家屋に案内し一人の中国人女性を紹介させ、一回汚姦した。12月、「安慶城内のある中国人家屋でXXXを紹介させ、その夜に強姦した」。
1940年10月、蘇州呉中飯店の者に中国人婦女(20歳前後)を紹介させて、汚姦した。
1941年5月、「初年兵50名に対して白兵戦の教育を行うため」、捕虜に「銃剣を以て、一人を一回10メートルの離れた所から走って来て刺突した」。
1942年5月、山西省の掃蕩中、中国人工作隊(売国奴)に命じ、拳銃で案内する事を拒絶した中国人を射殺させ、「死体はそのまま路上に放棄した」。
1942年8月、聞喜縣横水鎮東郝庄に赴き調査するとき、5名の住民を「横水鎮小北門外空地に於いて、日本刀で首を斬った」。
1942年10月、聞喜縣雲泉村、牛庄村一帯を捜査する時、逮捕した下中国人住民を「全部銃剣刺殺し、又は小銃で射殺した」。
1942年11月、聞喜縣の掃蕩を行った時、逮捕した中央系晋南野軍戦士3名を横水鎮情報所で「中国人鍛冶屋に作らせた日本刀が斬られるかどうかを試すために、横水鎮の畑地の井戸端に於いて首を斬らせた」。
1942年12月、聞喜縣下峪口村で「8名の臀部を槍で刺し殺害した」。聞喜縣東山底村で住民20余名を逮捕し、「日本刀、又は藁切り刀を以て斬殺した」。又「南門の所二つの中国住民の頭を曝首にした」。
1943年2月、聞喜縣北白石村の掃蕩を行った時、「15名を部落の北側の凹地に連行し、小銃を以て全部射殺した」。同日、蓋寨村で「私が命令して」、工作隊(売国奴)に9名を小銃で射殺させ、道案内を焼殺した。
1943年10月から11月の間、太岳山脈で、中国住民6名を「高い山の台から下に全員突き落として殺害した」。「またある村で中国人婦女と子供20名を洞窟に駆けて焼殺した」。
1944年7月、霍縣保安隊指導官として勤務中、慰安所を開き、「これより保安隊兵を女性に縛りつけ逃走をなくさせるのが主の目的であるが、自分もこれで公然に獣欲を満足できることを考えた」。
1944年12月、霍縣李家山一帯に掃蕩を行った時、村民3名を逮捕して拷問し、何も言わないため、「兵士に全部殺害すると命令した」。西許村南で11名を小銃で銃殺した。 1945年4月、保安隊が捕虜を接収し、「9名を目隠しをし、縛り付けた上射殺した」。
「私は日本軍時期、閻錫山に協力する時期及び解放時期に於いて、全時期で犯した罪悪の総統計」:住民への射殺88名、刺殺9名、生埋め2名、焼殺26名、溺死1名、墜死6人、日本刀及び藁切り刀で惨殺41名;中央軍、晋南野戦軍、抗日戦士61名。
「私は日本より中国を侵略して以来、日本軍の敗戦になる迄に犯した罪悪を小計して見ると、私が自ら直接殺害した中国人の総計61名」。私が命令して殺害させた総計は166名;命令を受けて殺害したのは41名。
「婦女への強姦の罪悪は7件(人妻5名、娘が2名);日本軍と保安隊員の獣欲のため慰安所を設置した罪悪は3件、12名婦女;私が汚姦した中国婦女は18名(慰安所婦女5名、飯店の働く女給4名、私娼8名、使女1名)」。
(翻訳・編集/呉寒氷)
(新華網日本語)
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