「8・15」を問う、日本社会の戦争を再考する声

2014-08-15 16:58:12
新華網日本語より

  【新華社東京8月15日】1945年8月15日、日本は無条件降伏を宣言した。日本軍国主義の罪悪に満ちた侵略の蹄鉄はやっとこの日で歩みを止めた。

  日本が敗戦69周年を迎えるにあたり、安倍政権をはじめとする歴史修正主義の勢力が時計の針の巻き戻しを企てるという逆流の中で、「8・15」の歴史的寓意を改めて深く考え、忘却と嘘に対抗することは、まさに日本社会が現実に直面せねばならない課題となっている。

  日本・村山富市元首相は雑誌『世界』の最新号に掲載された文章で、今の日本の社会で戦争を経験した人がますます少なくなり、戦争を知らない人がしだいに増え、現在集団的自衛権のような問題が現われており、歴史を振り返り、歴史を鑑とすることが一層必要になっていると指摘している。

  「8・15」、一人の日本人老兵士の眼に映った恥辱と新生

  「毎年の『8・15』はあなたにとって何を意味するか」

  記者の質問を聞いて、89歳の日本人老兵士、沖松信夫さんは、この問題は一言では言い尽くせないものだと語った。

  沖松さんは考えながらゆっくりと口を開き、「多くの日本人にとっては、『8・15』は二重の意義があって、一つは恥辱の日ということです。日本は敗戦しました。しかし日本が軍国主義から民主主義に転じた新生の日とも言えます。」と言った。

  沖松さん本人にとって、1945年の8月15日は、却って掛け値なしに新生の日で、彼のもう一つの「誕生日」だ。69年前の夏の盛りに、日本・陸軍第六航空軍の特攻隊「振武隊」の一員として、3ヶ月の訓練を受けた沖松さんは、ちょうど沖縄へ飛んで自爆攻撃を行う準備をしていた。8月15日、彼と4人の仲間は出撃命令を受けたが、乗り換えをする空港が空襲に遭ったので、彼らは時間通りに出発できなかった。その当日の昼に、日本の裕仁天皇が『ポツダム宣言』の受け入れを宣言し、日本は無条件降伏した。「あぁ、助かった!」沖松さんは、当時の心の中でしきりに喜んだが、それを顔に表す勇気はなかった。

  沖松さんのお兄さんはこんなに幸運ではなかった。広島で輸送の仕事をしていた沖松さんのお兄さんは、同年8月6日に原爆で被爆して亡くなり、遺骨は残っていなかった。「私の母は、兄が私に代わって死んだのだと言いました。」沖松さんは悲痛な表情を浮かべて、このように述べ、また「もし広島の原爆がなかったら(降伏することはなく)、私はきっと死んでいたでしょう。」と言った。

  戦後、沖松さんは「8・15」が日本の新しい誕生日だということを深く会得した。1961年、旧日本陸軍中将の遠藤三郎氏が「日中友好旧軍人会」を設立し、戦争を反省し、戦争の根源を根絶し、日中友好の促進を提起した。沖松さんはそれに感化を受けて入会した。その後、当組織は「日中友好8・15の会」と改名し、現在数百人のメンバーがいるが、あの戦争を経験した老兵士は目下わずか10数名を残すだけとなっている。当団体の核心理念は「軍備亡国・反戦平和」「過去を正視することは、歴史認識の原点」だ。沖松さんは今は担当者の代表幹事として、年齢は90歳に近いが、彼は怠ることなくさまざまな講演や講座に参加し、悲惨な戦争の記憶と反省の精神をより多くの日本人に伝えている。

  沖松さんたちにしてみれば、安倍政権は靖国神社参拝にしても、集団的自衛権解禁などの軍事的措置にしても、いずれも時代の流れに逆らって動いていることだといえる。安倍内閣の危険な暴走は、その原因の一つがまさに国民の全くの無関心とどうでもかまわないという意識にあるのだ。

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