南京大虐殺殉難者国家公祭読本(小学校版)

2014-09-17 09:25:52
新華網日本語より

一、血を浴びて城を守る

悲壮な南京防衛戦

手引き

    1937年7月7日、日本は盧溝橋事件をたくらんで引き起こし、全面的な侵略戦争を発動した。8日13日、日本軍が上海を進撃して、中国守備軍は勇気を奮い起こして抵抗した。11月12日、日本軍は上海を占領した後、南京へ進撃に行った。11月24日、中国政府は唐生智氏を南京衛戍司令官に任命し、十万余りの兵力を投じて、南京を守備した。12月1日、日本軍参謀本部は南京に攻撃する作戦命令を下達して、10万人以上の装備がすぐれる日本軍は多線路に分かれて南京を攻撃した。中国守備軍は装備が悪く、条件が困難な状況で、日本軍と決死の戦闘を展開した。

日本軍は光華門を攻撃していた

日本軍は中華門を攻撃していた

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    教導総隊上校(大佐)の謝承瑞団長が、部下を率いて光華門に増援した。1937年12日10日夜8時、日本軍は城外から光華門外城の城門の下にある通路に突入した。謝団長が決死隊を率いて、ガソリン缶を城壁のやぐらまで背負って、たいまつと一緒に城門の下にある通路に投げて、ガソリンを燃やした。大火で日本軍があちこち逃げ回って、最終城門の下にある通路に隠した日本軍が全滅された。不幸なことに戦闘開始前に病気にかかた謝団長はガソリンで火傷をした、結局に体力が耐えられないので、挹江門に撤退した時、犠牲した。

朱赤氏は雨花台で血を浴びる

手引き

    中国軍は南京防衛戦で非常に勇敢に闘った。南京は一週間以内に陥落し、中国軍は巨大な損失を被たが、多くの将兵は歴史に勇敢と悲壮な1ページを記した。少将の朱赤旅団長は南京防衛戦で部隊を率いて雨花台の陣地をしっかりと守り、何度も日本軍の進撃を撃退したが、結局に衆寡敵せず、身を国に殉じた。

朱赤将軍

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    12月9日から、少将の高致嵩旅団長はずっと雨花台防御線をしっかりと守って、自ら将兵を率いて何度も我が軍の陣地に侵入した日本軍と取っ組み合った。日本軍の何度も增援があって、敵と味方の力が非常にかけ離れた状況で、高致嵩旅団長の率いる第264旅と増援に来た朱赤旅団長の率いる第262旅は共同作戦をとって、12月12日までに雨花台陣地をしっかりと守ったが、結局に弾薬が不足と援軍がない状態で、壮烈に命を捧げた。1939年6月、中国政府は高致嵩旅団長に対し陸軍中将を追贈した。

蕭山令氏、長江のほとりで命をなげうった

    日本軍が上海を占領し、蘇州や無錫、江陰などを攻落して、数手に分かれて南京に迫っていた。危険を前にして蕭山令氏は命令を受け入れ、南京憲兵司令部司令代理を務め、また警備司令部防空司令と南京警察庁長官を兼任し、部隊を率いて南京保衛戦に参加した。蕭山令氏は軍人と民衆が江を渡り撤退するのを援護するため、自ら部隊を率いて日本軍を狙撃した。苦闘の中、弾数発に当たって己の身を顧みず国に殉じた。

図:蕭山令将軍

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    1937年8月15日に日本軍が初めての南京空襲を実施してから、12月13日に南京が占領されたまで、日本軍戦闘機に対する中国空軍の南京空中攻略戦が4か月も近く続いた。一部の中国空軍のナビゲーターは、南京を守るために勇敢に命をささげ、「中国江南大地のヘルメット」と呼ばれる楽以琴氏はその中の一人だった。

    12月3日、日本軍の戦闘機30機余りが南京を侵犯し、楽以琴氏とその戦友らは戦闘機を発進させ敵を迎え撃った。それは悲壮な戦闘だった。日本軍の戦闘機は多く、火力はすさまじかった。楽以琴氏は敵機十数機に包囲されながらも、卓越した操縦技術で数回も敵機に失敗させ、敵機間の接触・衝突をも引き起こさせた。敵は大勢で味方は小勢だった情勢の下、楽以琴氏の戦闘機はラジエーターや燃料タンクが弾に当たって煙が激しく立ちのぼった。飛び降りざるを得なかった楽以琴氏は敵の的にならないため、飛び出した時にパラシュートを引っ張らずに直接降下、パラシュートを放出しようとしたらすでに地面に身が落ち、壮烈な最期を遂げたが、23歳だった。

    犠牲した楽以琴氏の事跡が民国の小学教科書に載せた。抗日戦争が勝利を得た後、上海聯華映画製作所は、楽以琴氏の事跡をもとに映画『Wings of China(中国語:長空万里)』を撮影した。2011年、華誼グループは高志航、楽以琴、劉粋剛、瀋崇海など各氏の抗日戦争時代の英雄を原型にドラマ『遠ざかったタカ(中国語:远去的飞鹰)』(全30話)を撮影した。

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