三、人生の輝き
安全区と人道救援
手引き
1937年11月、日本軍隊は南京を攻撃・占領した前、南京市内の西側(欧米)の人士は人道主義から考え、平民を戦争から守るために、安全区を成立した。安全区は南京安全区国際委員会に管理され、25の難民収容所が設置された。南京大虐殺の期間に、安全区国際委員会と国際赤十字委員会南京委員会は安全区を含め、20万余りの中国人難民を庇った。
南京安全区国際委員会の一部分の委員
金陵女子文理学院難民所の職員とスタッフたち
ロバート・ウィルソン先生
南京大虐殺の期間、寧海路5号「南京安全区国際委員会」本部にいる難民たち
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南京安全区は南京市の西北部に位置し、面積は3.86平方キロメートルである。四面は道で限界とし、南側は漢中路で、東側は中山路で、北側は山西路とその北方への地域で、西側は西康路だ。その中に25の難民収容所が設置され、一番多いときに約25万人の難民が収容された。「南京安全区国際委員会」の本部は寧海路5号に位置した。
南京安全区の见取り図
ラーベの無私な救助
手引き
ある普通のドイツ人は、南京大虐殺期間の人道主義的なやり方で、その名前を永遠に中国人の心に残っている。彼はジョン・ラーベである。日本軍は南京を占領する前に、彼は「南京安全区国際委員会」の主席に選ばれ、日本軍が南京人民を蹂躙する危険なときに、ラーベとその仲間たちは全力で20万人余りの中国難民を保護した。
ラーベの旧居は今、南京大学のラーベと国際安全区記念館である
ジョン・ラーベ主席
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ラーベの日記(拔粹)
12月24日
……医者のウィルソン先生が彼の数人の患者を見せてくれた。顔じゅう銃剣の傷だらけの婦人は、流産はしたものの、まあまあ元気だった。下あごに一発銃撃を受け、全身にやけどを負った漁民もいた。日本人にガソリンをかけられて、火をつけられたのだ。体の三分の二が焼けただれている。彼はまだ二言三言口がきけるが、明日までもつくまい。私は地下の遺体安置室にも入った。昨夜運ばれたばかりの遺体がいくつかあり、それぞれ、くるんでいた布をとってもらう。なかには、両眼が燃え尽き、頭部が完全に焼けこげた民間人の死体があった。やはり日本兵士にガソリンをかけられたという。七歳くらいの男の子のもあったが、銃剣の傷が四つだ。ひとつは胃のあたりで、指の長さくらいだった。痛みを訴える力すらなく、病院に運ばれてから二日後に死んだという。
この一週間、私はおびただしい数の死体を見なくてはならなかった。こういうむごたらしい姿を見ても、もはや目をそむけはしない。クリスマス気分どころではないが、この残虐さをぜひこの目で確かめておきたいのだ。いつの日か目撃者として語ることができるように。これほどの残忍な(都市を占領してから10日間に犯した)行為をこのまま闇に葬ってなるものか!